自分がいやなとき…全人類の誰の前でも、いやな自分なのかって振り返ってみればいい。
「はっきり意見を言えるようになりたい」
「堂々としていたい」
などの、◯◯になりたい、に最近違和感を感じるのです。
なぜなら、◯◯になりたい、って言っている姿がまるで◯◯じゃない。
あるいは、◯◯になりたい、って言っている姿がすでに◯◯である。など。
もちろん過去にそういうふうに思っていたときはありました。わたしはたしか、「自分の意見がわからない」人間だったので、「いつでもどこでも自分らしく意見が言えるようになりたい」みたいなふうに思っていたような気がします。
紆余曲折を経て、いま思うことは、自分の中には「自分らしい自分」もいれば「自分らしくない自分」もいるわけで、それも全部ひっくるめて「自分」であるということです。
ハッキリ意見を言える人になりたい、と思っているアナタ。全人類の誰の前でもハッキリ意見を言えないのでしょうか。たとえば家族の前、子どもの前、知らない人の前、職場の人の前、患者さんの前、10分待ってやっと入れそうなトイレに割り込まれそうなときや、今にも車に轢かれそうな人に、「あぶない!」とハッキリ言えないでしょうか。
そうです。きっと、特定のある条件のもとで、ハッキリと意見が言えず、それがいやなのです。では特定のある条件とは?脅迫的な上司の前、たくさん人がいるところ、初対面の人、お母さんの前…
自分の中にあるたくさんの感情の中で、そのとき一番つよい感情が自分を引っ張っています。
それは誰が決めるのか。
それは 自分 ですね。感情の手綱を握っているのは、自分なのです。
ある条件がそろったとき、自分で、ハッキリ言えない自分を発動しているです。そして、その条件がないときにハッキリ言っちゃう自分は無視しているんです。
ときには、感情がこじれてどうにもならんときもあると思いますが。むしろそんなときのほうが多いんでしょうね。わたしもあります。めちゃくちゃあります。
でもきっと、なにかの拍子にほぐれるときがあると思うのです。
わたしは鳥さんの絵が苦手です
だから、意見が言えない自分で、堂々といたらいいと思うのです。
わたしは最近人の輪に馴染めない自分を飛び越えて、堂々と馴染みません。話したくなったら話すし、馴染めない人間を放っておけない人もいるのです。
わたしは、いつもいつもカッコイイ自分でいたいと思っていますが、あるときはもじもじしたり、あるときは恥ずかしがったり、あるときは調子に乗ったり、あるときは悩み続けたり、マダマダです。
でも、心のなかには公孫勝の生き方を抱きしめているので、いついかなるときも公孫勝のように生きていると!!思っています!!(まだ言うか
◯◯になりたい、じゃなくてな、◯◯な自分もイイなって思えばいいんじゃないかな。
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冷たいものの飲み過ぎで夏バテっぽくなったり、首を痛めたりしていたら間があきました。夏至ですね。はよ冬にならんかな。